出来事論・相対論・時間論

出来事論・相対論・時間論

『科学と近代世界』のうち、出版時に加筆された箇所では、ホワイトヘッドの最重要概念である「現実的生起(actual occasion)」という言葉が主として使われています。それに対して、ローウェル講義の諸章では、「現実的生起」という言葉は、術語として使われず、主に「出来事(event)」という言葉が使われている。このページでは、相対論や時間論との関連で「出来事」についてみてみましょう。

ローウェル講義における出来事
『科学と近代世界』のうち、ローウェル講義をもとにした諸章では、出来事は、原子的と呼ばれることはないものの、個体的(individual)と形容されたり、有機体(organism)と呼ばれたりしていました。中期哲学とローウェル講義の出来事は、連続的で無限に分割可能だから原子的ではないというのがフォードの解釈ですが、有機体としての出来事はそれぞれ、その本質を破壊することなく諸部分に解体することはできないという意味では個体的な統一体であるとはいえます。フォードは、ホワイトヘッドのいう原子をデモクリトスやその継承者らの原子論に比していますが、ローウェル講義でホワイトヘッド自身は、出来事をライプニッツのモナドに比しています。モナドは部分に分割できないという意味で単一で個体的であるという、ライプニッツ『モナド論』の規定は、モナドが実体であるという点を除けば、ホワイトヘッドの出来事にもあてはまります。ホワイトヘッドのいう出来事は、分割していったときそれ以上構成成分へと分析することができないという意味での単純で微小な原子ではなく、むしろ複合的でありながら分割不可能な統一体です。
こうした出来事は、それ自身のパースペクティブから他の諸出来事を映し統一する出来事です。ホワイトヘッドは、ライプニッツが初めて、「宇宙の諸々のパースペクティブを映すモナドという概念」を用いたと言及したあと、「私も同じ概念を用いているが、ただ私は、彼のモナドという概念を、時間や空間における統一された出来事に格下げしている」と述べています。ローウェル講義の時空論によれば、任意の時空領域は「分離的特性(separative character)」によりそれぞれ区別された固有の領域を占め、重複せずに互いに外的になります。さらに「様態的特性(modal character)」によりすべての他の時空領域を自らのうちに映し、それぞれの時空領域は相互に内在することになります。そして「抱握的特性(prehensive character)」によってそれぞれの時空領域はすべての他の時空領域の様態的諸相を統合し一つの統一体をなします。つまり出来事は、固有の時空領域を占めることによって互いに外的でありながら、相互に映しあうことによって相互内在的であり、かつ、各出来事はその内的実在性において他の諸出来事を自らのうちに統一すると考えられるのです。ホワイトヘッドは、一方では、「相互につながり合った多元的な様態に個体化される、実現の唯一の基底的活動(the one underlying activity)」をスピノザの唯一実体に比しますが、他方でライプニッツのモナドに比して出来事がもつ多元的側面を認め、各出来事がそれぞれのパースペクティブから他の諸出来事を統一するという多元的時空論を展開しているのです。
中期哲学では、出来事がもつ持続は4次元的な持続であると考えられていたものの、それは連続的な延長であり、それの抽象として時間や空間が導出されていました。この場合、すべての出来事は連続的で、その総体としての連続体は一元論的なものとなってしまいます。ローウェル講義でも出来事は4次元的な持続をもっていると考えられますが、中期哲学とは異なり、ローウェル講義の出来事はそれぞれが、今・ここに実現される過程としての個体的な出来事です。それは、時間と空間が未分化の時空統一体として生成する一回限りの出来事です。
もっとも単に生成するだけでは時間性もなければ空間性もないのですが、出来事は、「存続する個体的存在」とも呼ばれていた通り、諸部分を映し反復するとき歴史的経路をもっている限りで存続します。それは他の諸出来事を構成要素に含み、パターンの反復によって固有時を構成するのであり、時間はパターンの存続によって空間から区別されます。つまり、出来事は、それ自身では時間のうちにあるとも空間のうちにあるともいえないのですが、パターンの反復によって時間と空間が分離され「パターンは空間的に今である」と考えられます。4次元の時空統一体としての出来事が時間と空間に分離されるのは、静的な形式であるパターンの反復によって系列的な線形時間が生じるがゆえであり、それによって現在において幾何学的な空間構造も開かれます。逆にいえば、生成の時間(計量的な物理的時間ではない時間)が空間化され、パターンが反復されることによって系列的時間が構成されるのであり、そうして時間と空間は分離されるのです。
これは抽象の所産ですが、そうすることによってしか時間の継起も空間的な構造も生じえません。ホワイトヘッドは、ベルグソンとは違い、空間化された時間にそれほど批判的ではありません。確かに、知性的な「空間化」によって歪曲された時間を、具体的な自然の根源的事実としての時間とみなすことに対して、ベルグソンが非難したことについてはホワイトヘッドも賛同します。そのような本末転倒を「[抽象的なものを] 具体的なものと置き違う誤謬(Fallacy of Misplaced Concreteness)」として批判しますが、空間化それ自体は批判されるべき事柄ではないと考えているのです。
つまり、ホワイトヘッドのいう出来事はそれぞれ、具体的な4次元的な持続をもち、実現されるという意味では、全宇宙を包含する時空統一体です。それは、あるとき・ある場所の一度的な出来事です。ニュートン物理学の時空論で時間と空間は独立ですが、相対論において基準座標系の変換に対して不変であるのは4次元時空距離であり、時間と空間は独立ではありません。ホワイトヘッドの哲学における出来事論・時空論において個々の出来事は一つの時空統一体であり、相対論的モナド論とでもいうべきものです。時空統一体として局所的に実現されるそれぞれの出来事は不変項に相当しています。それにもかかわらず、時間と空間が分離されるのは、4次元的な持続をもった出来事が、あるパターンをもつとき、空間化されると同時に、パターンの反復を通じて系列的な時間が構成されるようになるからです。その4次元的な持続において、パターンの反復があるとき系列的時間が構成されます。そのある瞬間が、「停止した現在」です。
『科学と近代世界』の「相対性」の章に加筆された箇所でホワイトヘッドは、「エポック」を「停止(arrest)」と言い換えていますが、このようにみてくると、「エポック」という言葉はまだ使われていないとはいえ、ローウェル講義の時点でも既に、時間のエポック理論の原初的形態があったと思われますし、また、ホワイトヘッドは基本的に同型的なものの周期性のうちに物理的な時間の起源をみようとしていたと思われます。『科学と近代世界』の第2章「思想史における一要素としての数学」でホワイトヘッドは、自然の秩序を把握する際、楽音の周期性を特徴づけている数にピタゴラスが注意を向けたことに言及するとともに、周期という抽象観念を重要視し、周期性が様々な事例に見出されることを述べています。前期の著作『数学入門』では「自然の生命全体が周期的出来事の存在によって支配されている」と論じられた上で、振り子の振動周期や、吊り橋やヴァイオリンの音がもつ多数の振動周期が、それぞれ固有の周期をもっているという事実を挙げています。時間論との関連では、天体の運行によって定義される等しい時間間隔について論じたあと、時間は周期的出来事の観察に依存していると考えています。こうした周期という言葉はパターンとも代替できるから、ローウェル講義以前にもホワイトヘッドは、系列的な時間を、同型的なものの周期性にみようとしていたといえるでしょう。

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