『現象と実在』
Appearance and Reality: A Metaphysical Essay, 1893
Preface
Table of Contents
Introduction
Book I. Appearance.
I. Primary and Secondary Qualities
II. Substantive and Adjective
III. Relation and Quality
IV. Space and Time
V. Motion and Change and Its Perception.
VI. Causation
VII. Activity
VIII. Things
IX. The Meanings of Self
X. The Reality of Self
XI. Phenomenalism
XII. Things in Themselves
Book II. Reality
XIII. The General Nature of Reality
XIV. The General Nature of Reality (cont.)
XV. Thought and Reality
XVI. Error
XVII. Evil
XVIII. Temporal and Spatial Appearance
XIX. The This and the Mine
XX. Recapitulation
XXI. Solipsism
XXII. Nature
XXIII. Body and Soul
XXIV. Degrees of Truth and Reality
XXV. Goodness
XXVI. The Absolute and Its Appearances
XXVII. Ultimate Doubts
[概要](より詳しくは、吉田、2014年を参照)
・『現象と実在』(1893年)でブラドリーは、一なる全体としての「絶対者(the Absolute)」を実在とする形而上学を展開する。彼にとって絶対者とは、矛盾や不整合を排除する性格をもつ、分割不可能な(individual)単一のシステムであり、世界内で生じる現象的事実は、この絶対者の部分に過ぎないと考えられる。多様な現象は実在に帰属し、絶対者の統一性のもとでこそ整合的かつ調和的に存在するのであり、ブラドリーは、実在は整合的であると説く。矛盾や不整合を非実在的とし、矛盾からの止揚という弁証法を拒否する点では、ブラドリーはヘーゲル主義者とはいいがたいが、ともあれ、その形而上学は、絶対者を頂点とする一元論的・全体論的な特徴をもち、絶対的観念論の集大成として担ぎ上げられていた。
・こうした「全体」への関心は、同時に、当時の哲学、とりわけ形而上学という学を規定するものでもあった。ワーノックによれば、哲学以外の学問の関心が、部分的あるいは断片的に過ぎなかったのに対して、哲学には、全体としての世界や、実在についての結論を確立することが求められていた。「本当に『究極的な』真理に到達しようとする哲学者の努力は、例えば、何らかの非究極的な目的に役立ち、多少恣意的なもしくは暫定的な基準を満足させるような命題を確立しようとする科学の試みから区別されていたのである」。科学的世界観が隆盛を極める今日とは対照的に、当時においては、日常や科学の世界で真理として通用するものの方が不十分と理解され、それ以上の真理について語ることが、哲学者に課されていた。
・実際、ブラドリーにとって形而上学とは、「単なる現象に対するものとしての実在を知ろうとする試み、あるいは第一原理や究極的真理の研究、さらには宇宙を、単にばらばらに、もしくは断片によってではなく、ある一つの全体としてどうにか把握しようとする努力」(AR 1)に他ならなかった。確かに現象も単なる非存在ではなく、現象するものはすべて、いくらか実在的であるのだが、真に実在と呼びうるのは、一なる全体としての絶対者のみである。しかし、科学が扱う経験的事実は、あくまで現象に過ぎないのであって、実在そのものではない。つまり、科学は実在を十全に把握することはなく、そもそもブラドリーには、自身の哲学、とりわけ形而上学を経験的事実にもとづけたり、経験科学と結びつけようとする意図すらなかった。
・ブラドリーの方法論は、論理が絶対者に関する一般的な諸帰結に導くと考えるものであって、自然の事実の探求や経験諸科学の統合を通じて目的を達成しようとするものではなかった。自然の事実は有限で不完全性を含むから、その探求も自ずと有限性や不完全性を含み、完全な統一体である全体としての実在を明らかにすることはないからである。
・この点について、ホワイトヘッドは、絶対的観念論の学派は、「科学的なものの見方からあまりに分離しすぎている」と批判し、「自然の事実を、彼らの観念論哲学と何らかの有機的な仕方で結合することに明らかに失敗した」と酷評している(SMW 63f.)。彼自身は、むしろ、相対論や量子論、進化論や創発論、生理学や心理学など、当時の最先端科学を統合しつつ、あらゆる学問に通底する一般的諸原理を見出す中で、形而上学的原理を発見しようとした。主著『過程と実在』(1929年)でホワイトヘッドは、自らの哲学を「思弁哲学」と呼ぶが、「思弁哲学とは、我々の経験のあらゆる要素が、それによって解釈されうるような、一般的諸観念の整合的で論理的で必然的な体系を組み立てる努力である」(PR 3)。この定義には、体系の「整合性」と「論理性」という合理主義的側面が含まれるだけでなく、「解釈」ということによって、経験の諸要素を解釈しうる「適用可能性」と「十全性」という経験主義的側面も含まれている。ホワイトヘッドの形而上学は、決して空虚な思弁でなく、経験諸科学を包括しつつ、実在の一般的諸原理を記述しようとするものであった。
・ただし、ホワイトヘッドの形而上学がその例証として見出そうとする経験的要素は、経験諸科学の扱うような対象だけではない。経験諸科学を包括する体系という意味で、ホワイトヘッドは自身の哲学を「宇宙論」とも呼ぶが、「美的、道徳的、宗教的関心を自然科学に起源をもつ世界概念に関係づけるような観念体系を構築することは、完全な宇宙論の目的の一つでなければならない」(PR xii)と述べるように、彼の最終的な狙いは、科学のみならず、美的、道徳的、宗教的関心をも満足させるような、壮大な体系を構築することだった。
・ホワイトヘッドは、独自の神論を展開しているのは、『科学と近代世界』以降である。自然哲学期には神について論究することがなかったホワイトヘッドも、実在の形而上学的探求を深める中で、「アリストテレスのいう『原動者』としての神の代わりに」、具体的な事物が生起する可能根拠として神を位置づけるにようになったのである(SMW 174) 。主著『過程と実在』も、もともとは、伝統的に自然神学を主題とするギフォード講義をもとに書かれ、啓示ではなく、自然の観察と人間理性の行使により、神、あるいは神的なものを究明するものだった。この由緒ある講義は、E. ケアードやボザンケ、ロイスも担当しているほか、ホワイトヘッドに多大な影響を与えたS. アレグザンダーやL. モーガン、W. ジェイムズも担当している。20世紀初頭の英米にあっても、哲学者が神について論じるのは、ごく自然の成り行きであり、しかも、多くはそれを形而上学とともに論じていた。ホワイトヘッドの神論は、その後、プロセス神学として発展していったものの、当時の形而上学的思潮との連関の中でも論じることができるはずなのである。
・ホワイトヘッドの神論を哲学史の中で理解しようとするとき、やはりブラドリーの形而上学と比較することが重要となる。上で、ブラドリーの絶対者が、多様な現象すべてを調和のうちに包括することを述べたが、絶対者は、その際、欠陥や悲惨な事柄をも共存しうるものとして調和的に包括し、そうすることによって全体として豊かになると考えられる。ブラドリーにしたがえば、分離や不完全性は有限者に関わる事柄なのであって、「未完結性、不安定、満たされない理想性は、有限者の宿命である。厳密にいえば、唯一、絶対者を除いて、分割不可能あるいは完全であるものは何もない」(AR 217)。絶対者は、部分的な不調和や差異を、より高い調和のうちに保持しつつ超越することによって豊かになると考えられ、絶対者のもとでは、「何ものも失われえず、しかも、すべては調和に仕えるように善とされなければならない」(AR 214)。
・ホワイトヘッドの形而上学では、人間の個人個人だけでなく、「遥か彼方の空虚な空間における最もとるに足らない一吹きの現存」も、神も、等しく究極的実在であり、個々の現存が固有の価値とともに自己実現すると考えられる。第一に実在するのは、それぞれが主体であるような個々の現存であり、何らかの全体ではない。ホワイトヘッドの形而上学は、個の多元性を根本的なものとし、そうした多なる現存の自己実現こそが、歴史的過程として進展していく世界を形成すると説く。この過程において神は、世界にいまだ実現されていないものも含め、観念的な可能性すべてを抱懐し、個々の存在の生起に際して目的を与える機能を果たす。逆にいえば、個々の現存は神的な目的を与えられることを通じて自己実現し、そうすることによって自らを一つの客体的な存在として世界に与える。この神の「原初的本性(primordial nature)」は、ブラドリーの絶対者に類似して、非時間的で永遠的であるため、歴史的世界から超越している。しかし、他方で神は、神的な誘因のもとで生起した客体的与件を物的に「感受する(feel)」と考えられる。「結果的本性(consequent nature)」と呼ばれるこの本性により、世界は神に内在する。注目すべきは、ホワイトヘッドはさらに、神に「自己超越的本性(superjective nature)」を認める点である。神はこの本性により、世界からの反応を感じとりつつ自己超越し、自らを世界に与えるのであり、世界と「理念的対極」をなしながらも相互内在し、創造的で歴史的な過程に与すると考えられる。
・かくして、神は、歴史的世界の諸事実を感じとる中で、個々の現存とともに苦しんだり喜んだりするのであり、「理解ある一蓮托生の受難者にして偉大な伴侶」 (PR 351)として現実に参与する。ブラドリーの絶対者は、すべてを包括し、永遠的・静的・非歴史的で、世界と没交渉であるのに対して、ホワイトヘッドの神は、世界やそれを構成する個々の現存と共に在り、動態的・歴史的な過程を展開するのである。逆に個々の現存は、この過程に寄与し保持されていくという意味で「客体的不滅性」を獲得するため、どんなに些末な現存も、どんなに悲劇的な事実も、神と世界の歴史的過程の中で失われることはない。ここに恩寵や救済もあると解釈できる。
・『過程と実在』は、その表題からして、ブラドリーの『現象と実在』を意識して書かれたと想像できるが、「現象」に対置される「過程」は、ホワイトヘッド形而上学における世界や神の動態性を端的に表現しているといえよう。ブラドリーの場合、世界における現象的事実は、すべてを包括する一なる全体としての絶対者の調和のうちで統一され、そのために何ものも失われないと考えられた。一方、ホワイトヘッドにあっては、個々の現存の自己実現から生じる事実が、世界と神の相互内在によって進展する歴史的過程に客体的与件として寄与するため、何ものも失われないと考えられる。このことは、ホワイトヘッドが、ブラドリーの形而上学と問題関心を共有していたこと、そして独特な形而上学的神論も、当時の形而上学的思潮の問題点を批判的に乗り越えていく中で培われたことを示唆している。実際、ホワイトヘッドは、神と世界の「最終的見解」についてブラドリーに近似していると自認しており、「そこに含意されている思想の型は、絶対的観念論の主要な学説を実在論的基盤の上に変換したものではないか」と問われても致し方ないと述べているのである(PR xiii)。
・以上みてきたように、ホワイトヘッドの神論をブラドリーの形而上学と比較してみると、それは、特定の宗教の教義に由来するものではなく、当時の形而上学的思潮の影響下で形成された部分が大きかったことがわかる。では、宗教と形而上学は、いかなる関係にあるのか。この点は、『真理と実在』のページを参照されたい。
[参考文献]
L. B. McHenry, Whitehead and Bradley: A Comparative Analysis, SUNY Press, 1992.
G. J. Warnock, English Philosophy Since 1900, Oxford University Press, 1969.
吉田幸司 「ホワイトヘッド形而上学の意義―F.H.ブラドリーおよびW.ジェイムズと比較して―」『理想―特集:ホワイトヘッド』No.693、理想社、2014年。