「現実的存在」「活動的存在」「現実的実質」などと訳される。
ホワイトヘッド哲学の説く「究極的実在(Final Realities)」。「現実的生起(actual occasion)」とも言い換えられるが、「現実的生起」が、時空的に限定された「被造物(creature)」に限定される用語であるのに対して、「現実的存在」は、非時間的な側面を含む。例えば、永遠性を含む「神」は、「現実的存在」ではあるが、「現実的生起」ではない。また、しばしば、中期自然哲学の「出来事(event)」と混同されるが、後期哲学において、「現実的存在」や「現実的生起」は「出来事」ではない。「出来事」は、「現実的存在」や「現実的生起」が関係づけられて構成される「結合体(nexus)」に改め直されている。
では、「現実的存在」とは何であろうか。この問題を巡って、ホワイトヘッド研究者の間でも、議論が交わされてきた。ホワイトヘッド自身は、次のように言っている。
「現実的存在」―「現実的生起」とも呼ばれる―は、世界がそれによって構成される究極的な実在物(final real things)である。より実在的な何らかのものを見出そうと現実的存在の背後に遡ることはできない。現実的諸存在は相互に異なるが、神は現実的存在であり、遥か彼方の空虚な空間における最も取るに足らない一吹きの現存も、現実的存在である。しかし、重要性の度合いや、機能の違いはあるにしても、現実が例証する原理において、すべて同じレベルにある。究極的事実は、みな同様に現実的存在である。これら現実的存在は、複合し、相互依存的な、経験の雫(drops of experience)である。(Process and Reality)
ホワイトヘッド研究史では、大きく分けて、「現実的存在」に関する二つの解釈がある。一つは、何か微細な実在だと考える解釈。もう一つは、ミクロ、マクロに限らず、あらゆる存在者が、現実的存在だと考える解釈。
まず後者の代表者は、ウォラックである。彼女は、原子も分子も、机も椅子も、人間も地球も、神も、みな現実的存在の事例(instance)であると解釈した。『過程と実在』だけでなく『観念の冒険』などの著作も参照し、ホワイトヘッドは、どのような文脈で「現実的存在」を使っているかを分析し、様々な用法の事例を列挙する。そして、ホワイトヘッドは、素粒子のようなミクロの存在だけでなく、人間や地球、ローマ帝国といったマクロなものについても、現実的存在という語を使っていると彼女は指摘するのだ。この説は、「汎主体主義(pansubjectivism)」、すなわちあらゆる事物が主体性をもつという立場と結びついて、すべての事物が現実的存在だという解釈として提唱されている。
しかし、この解釈は、痛切な批判を受けている。というのも、机や椅子、人間や地球は、ホワイトヘッドの哲学では、「結合体」、特に「知覚的客体」や「人格的秩序をもつ結合体」に相当するからだ。「結合体」や「出来事」は、「現実的存在」から構成されるものであって、「現実的存在」そのものではない。
これに対して、現実的存在を、微細な実在だと考える解釈がある。プロセス哲学研究の第一人者、ジョン・カブ・Jr.や、研究雑誌Process Studiesの編集長を長年つとめたルイス・フォードなどが、その代表的人物である。カブもフォードも、ホワイトヘッドが『科学と近代世界』出版準備中に、量子論の影響を受けたことに注目する。中期自然哲学では、「出来事」という語が基礎概念として用いられていたが、不連続で分割できない「量子」に着想を得て、「現実的生起」という用語が使われるようになったというのである。実際、『科学と近代世界』の諸章のうち、ローウェル講義をもとにした章では、「現実的生起」という術語が使われていないのに対して、出版時に加筆された章、例えば「抽象」の章では、「現実的生起」という用語が多用されている。
こうした発展史的研究を背景にして、カブやフォードは、現実的存在は、素粒子のような、微細な実在だと解釈する。ただし、それは物理的存在に限らず、より哲学的に洗練・一般化された概念であり、経験(experience)の単位としての微細な実在である。このように考えるならば、机や椅子、人間や地球といった「出来事」ないし「結合体」も、そうした微細な経験の雫から、構成される複合体だと解釈できる。
おそらく「現実的存在」とは何かという問題を考える際に、具体的な存在者を列挙したり、それらによってそのイメージを作るのは意味がない。それどころか、有害である。素粒子にしても、机にしても、人間にしても、それらはあくまで、ある概念の事例(instance)に過ぎないからである。ホワイトヘッド哲学において重要なのは、様々な存在者がいる中で、「存在論的(ontological)」な探究をすることである。「現実的存在」も、存在論的探究の中で、たどり着いた究極的実在なのである。それを、素粒子とか、机に置き換えて理解するのは、本末転倒であろう。
カブやフォードの研究を超えて、より詳細に、「現実的存在」の発展史的起源を辿るならば、先に「現実的生起」の起源を明らかにしなければならない。「現実的存在」より「現実的生起」の方が先に、ホワイトヘッド哲学に登場したためである。それは、W.ジェイムズの純粋経験論と深く関わっており、『科学と近代世界』のもとになったローウェル講義で言及されている。詳しくは、「現実的生起」のページおよび、拙論「過渡期ホワイトヘッド哲学における意識」(『プロセス思想』)を参照されたいが、
特に重要なのは、ホワイトヘッドは『過程と実在』の「現存の範疇(Categories of Existence)」で、「現実的存在」を「真なるもの(res verae)」とも言い換えられている点である。この「真なるもの」は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」との関連で説明されている。「方法的懐疑」を通じて、疑っても疑えない「真なるもの」を見出したデカルトの「我」に代わるものとして、ホワイトヘッドは、「現実的生起」という術語を考え出したのである。
一方、「現実的存在(actual entity)」という用語が登場するのは、『宗教とその形成』においてである。それは、最初、「神」のみを指して使われ、被造物である「現実的生起」と峻別して使われていた。一言でいえば、「現実的存在」は、もともと「神」を指していた。それが、思索の発展とともに、「現実的生起」と融合していく中で、先の『過程と実在』のような言明がなされるに至る。
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