『信ずる意志』
The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy, 1897.
邦訳: ウィリアム・ジェイムズ著作集2 『信ずる意志』、福鎌達夫訳、日本教文社、1961年。
『信ずる意志―その他一般むき哲学論文集』
序
目次
第1章 信ずる意志 1896年6月
第2章 人生は生き甲斐があるか
第3章 合理性の感情
第4章 反射作用と有神論
第5章 決定論のディレンマ
第6章 道徳哲学者と道徳生活
第7章 偉人とその環境
第8章 個人の重要性
(第9章) On Some Hegelism 1882年4月
(第10章) What Psychical Research has accomplished 1890年3月
第9章と第10章は、邦訳には訳出されていない。また、序も、第9章と第10章への言及箇所が削除されているので注意。
信ずる意志―その他一般むき哲学論文集
序
“邦訳では、第9章と第10章への言及箇所が削除されているので注意。
「アメリカのたいていの大学では、特殊な学問分野を専攻する学生たちが研究会をつくっていて、・・・」”
目次
第1章 信ずる意志
エールおよびブラウン大学の哲学研究会でおこなった講演、1896年6月『新世界』New Worldに発表。
第2章 人生は生き甲斐があるか
ハーバード・キリスト教青年会でおこなった講演、1895年10月『国際倫理学雑誌』International journal of Ethicsに発表。また1896年、フィラデルフィアでS・B・ウェストン氏によって刊行されたポケット本に再録。
この論文の(邦訳で)102ページまでは、1879年7月の雑誌『マインド』Mindにのせた論文からの抜粋である。それ以下の箇所は1880年にハーバード哲学研究会で講演し、1882年『プリンストン・レビュー』Princeton Reviewに発表したものの再録である。
第3章 合理性の感情
ハーバード・キリスト教青年会でおこなった講演、1895年10月『国際倫理学雑誌』International journal of Ethicsに発表。また1896年、フィラデルフィアでS・B・ウェストン氏によって刊行されたポケット本に再録。
この論文の(邦訳で)102ページまでは、1879年7月の雑誌『マインド』Mindにのせた論文からの抜粋である。それ以下の箇所は1880年にハーバード哲学研究会で講演し、1882年『プリンストン・レビュー』Princeton Reviewに発表したものの再録である。
第4章 反射作用と有神論
第5章 決定論のディレンマ
第6章 道徳哲学者と道徳生活
第7章 偉人とその環境
第8章 個人の重要性
(第9章) On Some Hegelism
“Mind, April, 1882.
第9章と第10章は、邦訳には訳出されていない。また、序も、第9章と第10章への言及箇所が削除されているので注意。”
(第10章) What Psychical Research has accomplished
“Scribner’s Magazine, March, 1890.
第9章と第10章は、邦訳には訳出されていない。また、序も、第9章と第10章への言及箇所が削除されているので注意。”
「「経験論」というわけは、事実のことがらにかんするもっとも確かな結論すらをも、この態度は、将来の経験の行程において修正されるかもしれぬ仮説とみなすことに甘んずるからである。また「根本的」というわけは、この態度が一元論の学説そのものを一つの仮説として扱い、そこで実証主義とか不可知論とか科学的自然主義とかの名称で目下おこなわれている、数多くの中途半端な経験論とことなり、一元論を、……独断的に肯定しはしないからである。」(WB 訳2)ジェイムズが説くのは、「自分自身の責任において自分自身の信仰に没頭する個人の権利である」(訳6)
宗教的信仰が、公共の妨げにならない限り、科学者も信仰に干渉しようとはしないだろうが、「宇宙についての宗教的仮説がとにかく整ったものであれば、生活のうちに自由に表明されている、その仮説に対する個々人の活発な信仰こそ、それが検証されるための実験場の規準であり、それの真偽が解き明かされるための唯一の手段なのである。もっとも真に近い科学的仮説は、…もっともうまく「はたらく」仮説であるが、宗教的仮説に関しても事情はそれと違うわけがない。」世の変転を通じてもちこたえ、生命力を保持する信仰箇条を語ることこそ「宗教の科学」の役目であるという。科学者は、宗教を私事の領域に局限する。(訳7)「人間にかんしてもっとも興味ありかつ価値あることがらは、人間のいだく理想や過度の信念 である。」(訳8)
『信じる意志』でジェイムズが話すのは、「信仰を義とすること、いいかえれば論理一辺倒な知性人に事実上それを強いるわけにはゆかないけれども、われわれが宗教上のことがらを信じる態度をとる権利の擁護」(訳3)である。それを「信じる意志」という。我々の信念に提示されるものならどんなものでも、ジェイムズはそれを「仮説」と呼び、「生きてる仮説とは、それが提示される当事者の心に本当に可能なものとして訴える力のある仮説である」。ある仮説(例えば、マディ)は、ある人には生きていて、ある人には死んでいることもある。「ある仮説の死んでる状態および生きてる状態というのは、それ固有の性質ではなくて、それを考える個々人に対する関係なのである。そのことを測る尺度は個々人の行動意思にほかならない。ある仮説が最大限に生きてるということは変更しようのない行動意思を意味する。」
二つの仮説のどちらかに決めることを選択とよぶことにしよう。選択には、1.生きてるか、あるいは死んでる、2.否応なしか避けられる、3.ゆゆしいかつまらぬものがある。ある選択が、生きてる、否応なしの、ゆゆしいものである場合は、正真正銘の選択である。それぞれの説明。パスカルの賭け。
しかし、こうしたパスカルの賭けの信仰には、「信仰に実在する内面の魂が欠けている、と我々に感じられる。またもしわれわれが神の立場にたてば、おそらくこういう流儀の信者には特に無限の褒美をやらぬことにしたくなるだろう。ミサや聖水を信じるなんらかの傾向があらかじめ存在しておらなければ、パスカルが意志に対して提供する選択も生きてる選択とはならない。」トルコ人や新教徒ならミサや聖水を考慮しない。Cf. 個々人に対する関係。テレパシーは、自然の斉一性を打ち消してしまう。「我々の確信は、我々の知性以外の性能によって左右される。感情的傾向や意欲には、それらが信念に先だってはたらくものと、信念がえられた後にあらわれるものとがあるが、後者の場合それらはあとの祭りに過ぎない。したがって、あとの祭りでない場合には、信念がえられる以前に感情の働きがすでに独自の方向に向かっていたわけである。してみると、パスカルの議論は…理路整然とした反駁の余地のない議論のように思われる。」(訳16)
ジェイムズが擁護するテーゼは、「かずかずの命題中のどれか一つの選択が、その性質上、知的な根拠にもとづいては決められえない正真正銘の選択であるいかなるばあいにも、その選択は我々に固有な感情(our passional nature)によって決められることが単に合法的であるばかりでなく、必ずそれによって決められなければならない 。というのも、このような状況のもとで「問題を決定せず、未解決のままにしておけ」と語ること自体が、―そのイエスかノーかを決めるのとまったく同様―一つの感情的な決定(passional decision)であり、また真理を失う同じ危険にさらされているからである。」(訳17)
「われわれのおかす誤謬は、むろんこれほどひどく厳粛なものではない。どんなに警戒したところでまず確実に誤謬がひきおこされるこの世の中では、いくらか軽い気持ちでいるほうが、誤謬のためにこんなにまで神経をとがらせるよりもいっそう健全であるようにおもわれる。」(訳27)「我々の所信opinionsには、われわれに固有の感情passional natureの影響が事実上認められるばかりでなく、数々の所信のうちのどれか一つを選択する際に、この感情の影響力が我々の選択の不可避的であるとともに合法的な決め手とみなされなければならない。」(WB 25訳27)
宗教的仮説とは何を意味するのか。「科学はものごとが存在すると語り、道徳はあるものごとが他のものごとよりいっそう善いと語る。しかるに宗教が語るのは、根本的にいって次の二つのことである。第一に、宗教は、より永遠的なものごと、重複的なものごと、いわば宇宙に最後の一石を投げるものごとが、最善であると語り、終局的な言葉を語る。」完成が永遠であることは科学的には検証できない。「第二に宗教が明言するのは、もしわれわれがこの第一の宗教の明言を真であると信じるならば、われわれの状態がたちどころに善くなるということである。」
「宗教が真でありながらなおその証拠が不十分であるにしても、それを信じる私固有の気持ち(それがけっきょくこのことがらに何か一役買うように思われる)に水を注いで、勝利の側に達する人生の唯一の機会を私は失いたくない。―もちろんその機会がつかめるか否かは、世界を宗教的にとらえようとする私の感情的要求my passional needが予言的でかつ正当であるかのようにふるまう危険をあえておかす意志が私にあるかないかにかかっている。」(WB 31訳38)
信仰から解放されて歓喜する人たちの光景。「単に一元論的迷信から解放されるだけのこの段階においてさえ、自殺志願者は人生の真価についていだいていた疑問に対して、彼を力づける答えをかちえることだろう。たいていの人間には本能的な生命力の源がみかけられ、形而上学的な無限の責任の重荷がとりはらわれる場合、それが健全な反応を示す。そこでいつでも好きな時に人生を抜け出て構わぬという確信や、またそうすることが罰あたりでも非道でもないという確信は、それ自体が測り知れぬ心の救いとなる。そうなると自殺者の考えはもはや不埒な挑戦でも強迫観念でもなくなる。」 (訳64)
「超自然主義によれば、この世の経験を形作るいわゆる自然界は全宇宙のほんの一部であり、この目にみえる世界の彼岸に目に見えぬ世界が広がっており、これについて我々は何も明確なことを知らないが現世の生活の真の意義はこれとの関係のうちに存する、と主張されている。私にとって人間の宗教的信仰とは、……本質上、自然界の謎の解明がそこに求められうるある種の未知なる世界に対する信仰を意味する。」(訳72)「物理的世界がほんの一部の世界であると信じる権利が我々にあること、またそうすることによってのみ人生の生き甲斐がさらにいっそう増大すると思われるのであれば、我々の信頼する未知なる精神的世界によって物理的世界を補う権利が我々にあることを、諸君に納得させたいと思う。」「人間の天性には、現に手に触れられる事実だけしか認められない自然主義的ないしは唯物論的な意向が根強くしみこんでいる。「科学」と呼ばれるものは、この種の意向の偶像である。」(訳73)ガリレイ、300年間。「現在我々のもちあわせる自然の知識の範囲はいっそう広大なある種の世界のうちに包み込まれており、その広大な範囲の残りの諸性質について目下我々はどんな明確な観念も形作れないのである。他にどんな確かなことがあろうとも、これくらい確かなことはない。」(訳74)
不可知論的実証主義もこれを認めるが、常に我々の信念の感覚的証拠を期待しなければならず、このような証拠が手に入れられない場合には、どんな仮説も立ててはいけないという。だが、信念や疑惑は生活態度であって、我々の側の行為を伴う。存在するのを疑ったり信じるのを拒むやり方は、存在しないかのように行動することである。(訳75)科学は、目に見えぬ宇宙、宗教的要求に対して主張できない。科学は、存在しないもののことを語らないからである。
「我々の宗教的要求を信頼するということは、なによりもまずこの要求にてらして生きてゆくことを意味し、さらにこの要求のほのめかす目に見えぬ世界があたかも実在するかのように行動することを意味する。」(訳78)「決定権をもち永遠なものは精神的な力であるというひたむきな確信」が人生の生き甲斐を覚えさせるに足るものである(訳78)。
犬は人間の生活を理解できない。「犬と人間の世界を包含している、さらにいっそう広大な世界が存在するかもしれない」が、人間はそれを知り得ない。実証主義者は、そんな「かもしれない」を非難するが、科学的探求も「かもしれない」を免れない。「不確かな結末に対して前もって抱く我々の確信だけが、その結末を真実化させる唯一のことがらである場合がかなりしばしばある」。
人生と取り組もうとする資質があっても、苦難であっても、それを発揮する余地がなければ生き甲斐があるかわからなくなってしまう。「楽観論や悲観論が世界についての定義であるということ、また世界に対する我々自身の反応がいかに小量であろうとも世界全体のことがらの不可欠な部分をなしており、そこで必ずそれが世界をどう定義するかを決める一助となるということである。かかる反応は世界の定義を左右する決定的要因であるとさえいえるだろう。」(訳83)
「この世の目に見える相を善くしようとする努力や根気を道徳的人間に喚起するものが、目に見えぬ相に対する確信にほかならぬということである。…」(訳84)我々の奥底に「内面の生」があり、この層において、「信仰または不安をいだいて孤独に生きている」。外的な行為や決断は、この人格の深みにその源を発しており、ここに物事の本性と交流する奥底の器官が潜んでいる。
「人生を恐れてはいけない。人生は生き甲斐があると信じよ、そうすれば、この諸君の信念がその事実を生み出す一助となるだろう。」(訳85)