オットー

マックス・オットー
Max C. Otto 1876-1968

[伝記]
アメリカの哲学者。プラグマティズムの思想運動の中に位置付けられる。1876年にドイツに生まれるが、早くからアメリカに移った。キリスト教の社会事業家として、長くYMCAの仕事に従事。ウィスコンシン大学教授。アメリカ市民が日常実際に抱いている疑問を取り上げて論じた。哲学の歴史からではなく、人々が現在生きている日常生活が、いかなる哲学を要求するかを考えることから始まる。彼の書いた書物の多くは、そういった意味での哲学についてのものであり、哲学の専門書はそれほど多くはない。

[概要]
オットーは「無神論」を、1「宇宙的無神論」と2「倫理的無神論」とにわけた。つまり、無神論を、1自然の後ろに隠れて自然を動かしている善き意志をみとめないこと、2人間のもつ善き意志―真理、正義、美に向けられた―を認めないこと、に区別する。そしてオットーは、神の存在についての意見の異なる思想家が、具体的な倫理問題においては同様の立場をとることの多いことを例にとり、宇宙論的無神論と倫理的無神論が別物であることをといた。そして、アメリカの民衆がそれらを区別しないことで、政治的進歩をさまたげていることを指摘した。そのうえで、自身の立場を1の立場であると称する。そして、かつてはほとんど日常を支配していた信仰が、時代を経るにつれて、その範囲を狭めていっても問題のないことが明らかになっていく。そうするとたとえば精神病治療の問題などが効果的に処置されるようになる。そうして、人々はもはや、一週間の大半を、神を忘れて働き飲み食いしているのである。それでも、人々が信仰を完全に捨ててしまわないのは、死への恐怖からである。しかし、人々の道徳意識に関しては、これは、信仰心とは別に発達してきたこと(ブレステッドのエジプト史研究から)を主張し、動物共存の原理としての道徳が有神論と結びついたのは、人類の歴史のごく短い期間にすぎないという。むしろ有神論に基づく道徳を、オットーは、自然人の死を目的としたもの、人間としての肉体的、知的、文化的要求を抑圧するものとして、それを有神論と結びつけることに反対する。このような態度が、オットーを1の意味での無神論へと導いた。これは、アメリカの知識人の多くにおけるように、単に信仰心を持たないという消極的態度なのではなく、神が存在しないという積極的信仰である。生き方も考え方も、その上につくられるのであり、それは破壊的な信仰ではなく、むしろ建設的信仰なのである。オットーは、無神論者ではあるが、宗教そのものを否定しているわけではなく、宗教的態度や思考、感情・行動などは様々な形をとって残るべきであるとしている。宗教の源泉は、われわれの生活の中にたしかにある。自分の知力、体力には限界のあるという自覚、自然に畏怖をいだくこと。これらの宗教的感情は、一定の神話や儀式、教理などによって飼育され組織されるようなものではない。そうではなく、まさに我々の生活の中にあるそういったことを人生全体の中でどのように生かしていくのか、これこそが哲学の課題であるとオットーは考えた。

(鶴見、「オットーの人と思想」参照)

(整理中)

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