誕生~前期ホワイトヘッド
ホワイトヘッドの生涯は、大きく3つに区分されます。(1)論理学や(応用)数学について研究していた前期、(2)自然哲学・科学哲学に取り組んだ中期、(3)独自の宇宙論・形而上学を展開した後期という3つの時期です。このページでは、誕生から前期にかけての伝記と思想を概観します。
1861年2月15日、イギリスのケント州サネット島ラムズゲイトにアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは生まれました。10歳からラテン語を、12歳からギリシャ語を学び、1875年、14歳でシャーボーン校に入学後は、古典の教育を受けながら、数学を学んでいます。課外活動では、学生長、クリケットやフットボールなどの競技の主将を務めていることからも、優秀な学生だったことがうかがい知れます。この頃から『科学と近代世界』で引用されるワーズワースやシェリーといったロマン主義の詩を愛好するとともに、歴史にも強い関心を寄せていました。のちにラッセルは、「ホワイトヘッドは驚くほど幅広い関心の持主で、私は彼の歴史の知識に驚くことがしばしばだった」と語っています。 | |
1880年秋、19歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに特待生として入学し、数学を専攻します。数学以外の教養は、夕食時から様々な分野の人々と交わされる対話の中で培われました。そこでの議論に喚起されて本格的に哲学書を読み始め、1885年秋、特別研究員になるまでには、『純粋理性批判』の一部を暗唱するほどになっていたそうです。1887年、応用数学・理論物理学(力学)の研究で修士号を取得します。 | |
1890年には、イーヴリン・ウィロビー・ウェイドと結婚。ホワイトヘッドは、妻が自分の世界観に及ぼした影響は根源的なものだと語ります。「彼女の生気に満ちた生活は、道徳的・審美的意味の美が存在の目的であること、優しさ、愛、芸術的充足がこれを達成する様式であることを私に教えてくれた」。1891年には長男ノース、1892年に次男、1893年に長女ジェシー、1898年に三男エリック・アルフレッドが生まれます。 | |
ホワイトヘッド研究では、論理学や数学、理論物理学の分野を中心に活躍した時期が「前期」と分類されます。最初期の業績は、1898年に刊行された『普遍代数論』です。これは、人間の思考や経験世界の法則を表現する演算体系を構築したもので、1903年には、この功績で王立協会(Royal Society)の会員に選出されています。ホワイトヘッドは、その続巻を構想するも断念しようとしていた矢先、同年(1903年)に、ラッセルが『数学の諸原理』の第1巻を出版し、第2巻が同一テーマだったことから共同研究に着手します。1910年夏、家族とケンブリッジを去り、ロンドンに移ります。 | |
1910年、ラッセルとの共著『数学原理』第1巻を刊行したのち、1912年には第2巻、1913年には第3巻を刊行します。現代哲学史の通説では、この著作は、数学の全体系を、論理学の基本原理から演繹によって還元的に基礎づける「論理主義」として特徴づけられますが、論理主義が両者の最終目的ではありませんでした。この頃、ラッセルもホワイトヘッドも、幾何学や物理学の基礎づけという問題意識をもっていたからです。実際、この頃のホワイトヘッドは、直接経験の所与から数学的対象が抽象される「延長抽象化の方法」を構想しています。 | |
しかし、1914年、そのアイディアをラッセルが『外界の知識』で発表してしまうことになります。これを知ったホワイトヘッドは、ラッセルを次のように叱責しました。「私は、私の考えが、現在の所、私の名においてにしろ、他の誰かの名においてにしろ、普及されることを望みません。……私は、あなたが各章にわたって、理解しやすくなっている私の草稿を、私が全面的な真理とは考えないような一連のものに陥れるようなことをしていただきたくないのです。あなたが、私のこのノートの助けを借りないでは仕事に取りかかることができないと思われることは、誠に残念です。」また、この頃から両者の哲学的見解の相違も顕著になってきます。ラッセルが「論理的原子論」の提唱や、論理実証主義とも結びつくような方向へ向かうのに対して、ホワイトヘッドは、「出来事(event)」の自然哲学を展開し、形而上学に向かっていきます。こうして共同研究は終わり、第4巻の刊行は実現されることはありませんでした。 |